M67seijinの鬱々な日々

67年生まれのオヤジです。鬱々な日々の中で、その都度興味を惹かれたこと、心に浮かんだことなどを綴っていく予定です。

少しだけ、ブログの舞台裏を・・・

今日もなんとかつつがなく仕事を終えた。

 

入浴と夕食を済ませ、自室に引きこもり静かにパソコンの電源を入れる。

 

早速はてなブログを開き、「記事を書く」をクリック。

入力用の真っ白な画面が出てきた。

 

しばらく真っ白な画面を見つめながら、「今日は何を書こうか」と思案してみる。

 

書く材料は頭の中に色々渦巻いてはいるのだが、それをひとつの記事としてまとめ上げるには、その材料の取捨選択を始め、統合性やレトリックを考えるなど色々と面倒な作業が必要である。

 

想いの丈をぶちまける感じで一気呵成に書ける、天才的な人が羨ましい。

 

だが、そういうタイプではない僕のような人間は、どうしてもこのような迂回した手順を踏まなければまともな文章は書けないのだ。

 

別にプロの文章家ではないのだから、そこまで考えなくても良さそうなものではあるが、インターネット上で公開する以上は、素人は素人なりに、誰に読まれても恥ずかしくないものを書きたい、という矜恃があるのだ。

 

これまでそのような考えで16本ほどの記事を書いてきたが、絶えずそれを意識していたおかげもあってか、いずれも何とか読める水準には達していると思う。

 

だが、まだまだ自分の理想の水準には程遠い。

 

僕がこのブログを立ち上げた理由のひとつは、とにかく毎日書くことで自分の文章表現力を磨きたい、ということであった。

 

16本などはまだまだ甘い。

 

僕には現在5名の読者の方々が付いているが、回数を重ねるにつれ上達していきたいと願いながら書いているので、引き続き見守っていただけたら、と思っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

それでも体は懸命に働いている

昨日は昼過ぎから体調が優れず、無理して働いて帰宅した後薬を飲んで寝ていたらいつの間にかこんな時間になってしまった。

 

まだ若干ふらつきは残っているものの、おかげで大分気分は良くなった。

 

こういう時には、やはり健康というのは何者にも代えがたいものだなあ、という感慨がひしひしと湧き起こってくるものである。

 

一般に、僕のようなうつ病者は普段自分自身の健康には無頓着である。

 

そもそも生きていること自体にさほど執着がないので、「体をいたわる」という意識が他の人に比べて希薄なのだ。

 

しかし、そのように精神から見放された体は、それでも僕を生かすためにいつも懸命に働いてくれている。

 

僕が今こうしてなんとかキーボードを打てるまでに回復したのは、寝ている間に体が免疫力を駆使して病魔を追い払ってくれたからだ。

 

僕は現在毎日このブログを書くことを日々のささやかな楽しみとしているが、こういうことができるのも、僕の体が自浄作用によりコンディションを一定に保ってくれているおかげなのだ。

 

そう考えると、いくら精神を病んでいるとはいえ、体まで粗末に扱うということは、やはりいけないことだな、という気がしてくる。

 

今僕が持っているこの命と体は、自然から与えられたかけがえのないものである。

 

生きていると辛いことも多いが、そのように悩むことができるのも、すべては命と体があるからこそできることだ。

 

 

精神的にはいつもダウンしている僕だけれど、その中でも健康に対する感謝だけは忘れてはいけないな、という思いを今回新たにした次第である。

 

 

「病者の祈り」に想うこと

本格的なうつに突入してそろそろ半年が過ぎようとしている。

 

以前は知識欲が旺盛で手当たり次第色々な本を読んでいたものだが、そのような気力も近頃はめっきり衰えてきた。

 

現在ではもはや新しい本に手を出すことは難しくなったが、これでも昔は色々な本を読み、感銘を受けた箇所を抜き書きして分厚いノートを埋めていたものだった。

 

今日ふと思い立ち久々にそれを開いてみたら、中にこんな詩を見つけた。

 

病者の祈り(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED)

 

大事を成し遂げられる強さを与えてほしいと神に求めたのに、

慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。

より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、

より良きことができるようにと病弱を与えられた。

幸せに過ごせるようにと資産を求めたのに、

賢明であるようにと貧困を授かった。

世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、

神の御手を感じることができるようにと弱さを授かった。

人生を楽しく過ごせるようにとあらゆるものを求めたのに、

どんな些細なことにも喜べる人生を授かった。

求めたものは何一つとして与えられなかったが、

願いは全て聞き届けられた。

口で祈る私自身の願いとは全く別に、

心の中の祈りの言葉は御胸に届き叶えられた。

私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。

 

これは、ニューヨークのリハビリテーションセンターに掲げられている、ある名もなき患者が書いた詩である(原文は英語)。

 

これは明らかにキリスト教的信仰に基づいた詩であるが、これを書いた人はおそらく重度のうつを患っていたのだろう。

理想と現実のあまりの違いに嘆きながらも、それを神の恩寵と受け止め前向きに捉えようとする真摯な姿勢には共感できるところがある。

 

僕はキリスト教徒ではないけれど、この詩はうつ病者に対して普遍的なメッセージを発信していると思う。

 

これは認知療法的な見方になるけれど、現実というものは「捉え方次第」ということだ。

 

一般的に、うつ病者は自分の現状に不満を抱いている。

自分の思い通りにいかない現実世界に対し、「こんなはずではない」という不毛な問いを際限なく投げつけるのがうつ病者だ。

その結果、ある者は神経に異常をきたし、ある者は問いに疲れ、無気力になったりする。

 

しかしそんな時、もしこの詩のように、この現実を「恩寵」と捉えることができれば、世界の見方もまた変わってくるのではなかろうか?

 

今現在自分の置かれた状況を変えることはできないが、そこに「神の意志」という概念を導入することにより、幾らかでもその状況を「生き易く」することはできるのではないか?

 

歴史を見ると、キリスト教に限らず、宗教は必ず過酷な環境の中から生まれてくる。

これはおそらく、その環境下でなんとか生き抜こうともがき苦しんでいた人々が、心の拠り所とするべき存在(神)を求め、それが宗教として結実したということなのだろう。

 

 

宗教の成立を考えることは、うつ病者にとって、自らの問題を解決するためのひとつの糸口になるのではないか・・・今回、一編の詩を手掛かりに考えを巡らした結果、僕はこのような結論に至ったのであった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

束の間虚しさを忘れるには・・・

土曜日から日曜日にかけての貴重な休みが終わろうとしている。

 

この二日間、特に何もやる気がなく結果的には寝てばかりいた。

 

仕事でクタクタになるのはもちろん嫌だが、逆にやることがなくひたすら寝るばかりというのもこれでなかなかきついものだ。

 

そこでふらっとタバコを買いに出たついでに車でしばらくそのあたりをウロウロ走ってみたのだが、もちろんそんなことくらいで気分が晴れるわけもなく、帰った後にはさらに虚しさが募り、一服した後またしても布団に入ってしまった。

 

その後入浴と夕食を済ませた後ようやく机の前に座りこれを書いているのだが、今や完全な習慣となったこの行為だけが、束の間虚しさを忘れさせてくれる。

 

ブログには、単なる日記と違い、読者からレスポンスを受ける可能性がある。

 

始めてからまだ間もない僕のこのブログも、読んでくださった方からすでにいくつかの星や読者登録をいただいた。

 

ほとんど独り言のようなこんな記事を読んでくださる方がいるだけでもありがたいのに、そのような目に見える反響があるのは本当にありがたいし、励みにもなる。

 

 

明日からはまた一週間仕事に忙殺されることになるわけだが、その後また毎日ブログを書く楽しみがあると思うと、それだけでほんの少しだけ心安らぐ思いがする。

 

この気持ちを胸に、明日からまた自分なりに頑張ってみよう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

コロナによるストレス、ブログで何ができるのか?

国から緊急事態宣言が出されて数日が経ったが、コロナウィルスの感染者は減少するどころか増加の一途をたどっている。

 

現時点で、このウィルスの感染者は全世界で151万人、死者はすでに9万人を突破している。この記録も、明日にはもう塗り替えられてゆくのだろう。

この先1週間後、1ヶ月後にどのような状況が待ち受けているのか、先行きはまだ全く不透明である。

 

そんな中、相次ぐ自粛要請や施設の閉鎖などにより、つい数ヶ月前まで当たり前だった日常が日一日と遠いものになってゆく。

 

営業自粛や風評被害により心ならずも職を追われた人たち。

感染のリスクにさらされながらも、生活のため出勤を続ける人たち。

学校で友達に会うこともできず、自宅待機でひたすらストレスと戦う子供たち・・・

 

現在世界中の人たちが、このような先の見えない不安に怯えながら暮らしている。

それに伴うストレスは、もはや相当なレベルまで達していると見做さなければならないだろう。

 

世間ではマスクや消毒液、医療機関のキャパシティの不足対応など物資の問題ばかりが大きく扱われているように見えるが、それと並行して、水面下で増大し続けているこのような不安やストレスなどのメンタル面にももっと目を向けるべきではないだろうか。

 

メンタルの崩壊は、ある意味で物資の窮状以上に深刻で恐ろしい問題である。

この問題を放っておくと、パニックや暴動、最悪の場合戦争にまで発展しかねない。

そのようなことを、断じて許してはならない。

 

これからは、このコロナショックを機に不安障害やパニック障害など心を病む人たちが飛躍的に増大していくことだろうが、うつ病者である僕も、この社会に生きている以上、彼らを全く無視してやり過ごすことはできない。

 

せめてその辛い気持ちを分かち合い、相手の心の負担を少しでも減らせるよう、微力ながらも力を尽くしていきたい。

 

僕の書いているこのブログは吹けば飛ぶようなちっぽけな個人メディアだが、これを読んだ人たちが「ああ、ここにもうつで辛い思いをしながら懸命に生きている人がいる」と共感してくれたら、それはひとつの社会貢献につながるのではなかろうか。

 

 

うつ病者である僕が社会にできることは本当に限られているけれど、せめてこのブログが、ささやかながらもそのような役割を果たせることを願っている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

今日は待望の週末。今週もよく頑張りました。

今週の仕事が無事に終わり、ようやく週末を迎えることができた。

 

今夜から日曜日の夜にかけては、ともかく何に縛られることもなく自由に時間を使うことができる。それを思うと、心地よい開放感で胸がいっぱいになってくる。

 

しかし、もちろんこんな幸福感は刹那的なものである。

 

やがて時間が過ぎ日曜の夜が来れば、また始まる苦痛の一週間に胸が締め付けられることは分かっている。だがそれでも、毎週金曜日の夜に味わうこの気持ちはやはり僕にとっては特別なものなのである。

 

普段は自分のすべてに否定的な僕だけれど、この時ばかりはさすがに自分で自分を褒めてあげたくなる。

 

 

この一週間、毎朝の辛い気持ちを振り切ってよく頑張って仕事に行ったな。

おかげさまで、家族も路頭に迷うことなく無事に生活することができた。

本当は重度のうつ病で仕事なんていける状態じゃないのに、それでも自分に鞭打ってよく働いたな。

こんなこと、誰だってできることじゃない。それを立派にやり遂げたお前は本当に偉いよ。

もうお前は立派に義務を果たしたのだから、週末は誰にも気兼ねせずゆっくり心と体を休めてくれ・・・

 

 

実はつい最近までは、休みの間何か生産的なことをしなければ、という焦りの気持ちがあり、何かしようともがいた挙句、結局何もできなかった自分にまた絶望し・・・という悪循環にはまっていた。だが、もうそろそろそんな習慣は打ち切ろうと思う。

 

孤独に浸りたければ気の済むまで浸っっていいし、寝たければ一日中寝て暮らしても構わない。

 

早く岸へ着こうとジタバタもがくのではなく、ゆったりと流れる大河に身を任せる気持ちで、明日明後日の連休を「有意義に」過ごしたいと思う。

 

 

 

 

クリニック院長との一問一答

今日は週一回通っているクリニックの受診日であった。

 

「今週一週間どうでしたか?」

「うーん、これといって目立った変化はないですね。朝は相変わらず仕事に行くのが嫌で嫌でたまりません。それでも気力を振り絞って毎日会社に行くのですが、仕事にやりがいなんてもちろん一切感じません。なんとか現在の生活水準を維持して行くため、苦役に耐え忍んでいるような状況です」

 

「会社の人たちとはどうですか?」

「周りの人たちは皆明るく良い人たちです。きちんと仕事をし、合間には冗談を交わしたりして和気藹々とやっているのですが、僕にとってはその雰囲気が眩しすぎてとても入り込むことができない状況です。だから、同僚たちとは仕事上最低限必要なこと以外はほとんど会話もしません。本当はこの和やかな雰囲気に進んで参加したいのだけれど、何か見えない壁に遮られている感じで、どうしても普通に接することができないのです・・・」

 

普段は胸の中に抑え込んでいる気持ちを、ここぞとばかりに院長にぶつけてみる。

 

「僕もいい年の大人で妻子を養っている身分なのですが、うつ病になってからは彼らとの溝もだんだん深くなっているような感じがします。何しろ自分に全く自信が持てないものだから、一家の長として尊厳を保つことも難しいし、それどころか常に優柔不断でみっともないところばかり晒している有様です。こんな僕を見て、女房はもちろんですが、息子も本当に失望していることでしょう。それを思うとますます気持ちが落ち込み、さらなる悪循環にはまってしまうのです・・・」

 

最も恐ろしいのは、この苦しみにさっぱり終わりが見えない、ということである。

今は現状維持だけで精一杯。この状態も、いつまで続けることができるかは分からない。

ある日何かのきっかけで、この現状さえ失う時が来ないとも限らない。

とにかく将来は真っ暗闇だ。

 

「休日にでも、何か気分転換をなさってはいかがですか?」

 

確かに、映画を観たり美味しいものを食べに行ったり、趣味に興じたりすれば、その間だけは嫌な気分を忘れることができるかもしれない。

しかし、楽しい時間にはいずれ終わりが来る。

その後は必ず現実に引き戻され、つかの間忘れ去っていた不安や絶望感に再度向き合うことになるのだ。

 

僕はこの感覚が嫌で嫌で仕方がないので、つかの間の「逃避」である気分転換をすることはあまり気が進まない。それくらいなら、変に気をそらさずただ鬱々としていた方がまだマシだと思う。

 

「そうですか。では今日も前回と同じ薬を出しておきますので、これでまた様子を見てください」

 

かくして今日の診察は終わり、またラミクタールを処方された。

この薬、もう二週間も飲み続けているのだが、一体いつになったら効き目が出てくるのだろう? 

 

来週もクリニックに通う予定なので、その時にまた経過報告ができれば、と思っている。