「病者の祈り」に想うこと
本格的なうつに突入してそろそろ半年が過ぎようとしている。
以前は知識欲が旺盛で手当たり次第色々な本を読んでいたものだが、そのような気力も近頃はめっきり衰えてきた。
現在ではもはや新しい本に手を出すことは難しくなったが、これでも昔は色々な本を読み、感銘を受けた箇所を抜き書きして分厚いノートを埋めていたものだった。
今日ふと思い立ち久々にそれを開いてみたら、中にこんな詩を見つけた。
病者の祈り(A CREED FOR THOSE WHO HAVE SUFFERED)
大事を成し遂げられる強さを与えてほしいと神に求めたのに、
慎み深く従順であるようにと弱さを授かった。
より偉大なことができるようにと健康を求めたのに、
より良きことができるようにと病弱を与えられた。
幸せに過ごせるようにと資産を求めたのに、
賢明であるようにと貧困を授かった。
世の人々の賞賛を得ようとして権力を求めたのに、
神の御手を感じることができるようにと弱さを授かった。
人生を楽しく過ごせるようにとあらゆるものを求めたのに、
どんな些細なことにも喜べる人生を授かった。
求めたものは何一つとして与えられなかったが、
願いは全て聞き届けられた。
口で祈る私自身の願いとは全く別に、
心の中の祈りの言葉は御胸に届き叶えられた。
私はあらゆる人の中で最も豊かに祝福されたのだ。
これは、ニューヨークのリハビリテーションセンターに掲げられている、ある名もなき患者が書いた詩である(原文は英語)。
これは明らかにキリスト教的信仰に基づいた詩であるが、これを書いた人はおそらく重度のうつを患っていたのだろう。
理想と現実のあまりの違いに嘆きながらも、それを神の恩寵と受け止め前向きに捉えようとする真摯な姿勢には共感できるところがある。
僕はキリスト教徒ではないけれど、この詩はうつ病者に対して普遍的なメッセージを発信していると思う。
これは認知療法的な見方になるけれど、現実というものは「捉え方次第」ということだ。
一般的に、うつ病者は自分の現状に不満を抱いている。
自分の思い通りにいかない現実世界に対し、「こんなはずではない」という不毛な問いを際限なく投げつけるのがうつ病者だ。
その結果、ある者は神経に異常をきたし、ある者は問いに疲れ、無気力になったりする。
しかしそんな時、もしこの詩のように、この現実を「恩寵」と捉えることができれば、世界の見方もまた変わってくるのではなかろうか?
今現在自分の置かれた状況を変えることはできないが、そこに「神の意志」という概念を導入することにより、幾らかでもその状況を「生き易く」することはできるのではないか?
歴史を見ると、キリスト教に限らず、宗教は必ず過酷な環境の中から生まれてくる。
これはおそらく、その環境下でなんとか生き抜こうともがき苦しんでいた人々が、心の拠り所とするべき存在(神)を求め、それが宗教として結実したということなのだろう。
宗教の成立を考えることは、うつ病者にとって、自らの問題を解決するためのひとつの糸口になるのではないか・・・今回、一編の詩を手掛かりに考えを巡らした結果、僕はこのような結論に至ったのであった。