M67seijinの鬱々な日々

67年生まれのオヤジです。鬱々な日々の中で、その都度興味を惹かれたこと、心に浮かんだことなどを綴っていく予定です。

うつ病ブログにおける「切り口」について

自分でブログを書くようになっってから、自然と他人のブログを見る機会が増えた。

 

僕は現在うつ病関連のグループに登録しているのでそのグループに投稿されているブログを集中的に見ているのだが、読めば読むほどいかに自分が「井の中の蛙」であるかを思い知らされる思いがする。

 

世の中にはうつ病と戦っている人がなんと大勢いることか!

 

ある人は、その辛い症状をなんとか改善しようとあの手この手を考え、ある人はそれを機縁に真剣に自分を変えようと努力し、またある人はそんな中で日常のささやかな出来事に幸せを求めようとしている。

 

うつ病に対処する方法は、本当に人様々である。

 

こういうものを見ていると、「うつだ。辛い。誰か助けて」と常に心の中でつぶやきながら、そのくせ何らの具体的な手立ても打たずにただ悶々と日々を送っていた自分がたまらなく恥ずかしくなる。

 

ようやくこうしてブログを立ち上げ自分からも何か発信していこう、という気になったのだが、このように、他人のブログから逆に教えられることの方が圧倒的に多い。

 

 

そんな中で、最近僕の胸に特に深く突き刺さってきたのが、少し毛色は違うのだが、一切の虚飾を捨て、ただひたすら自分の辛い気持ちをストレートに綴っているブログである。

 

この方の文章には、とにかく飾りがない。

毎朝大泣きし、行きたくない仕事に行き、クタクタになって帰宅し毎夜いじいじと悩むに日常をただ淡々と綴っているのだが、なんというか、文章に凄みがありすぎてついつい引き込まれてしまうのである。

 

彼のブログには、「情報」という点ではあまり得るところがないかもしれないが、これはうつ病に対してのひとつの立派な「切り口」と言えるだろう。

実際これを読んで、共感したり感動したりする人は大勢いると思う。

(実際このブログは多数の読者とコメントを獲得している)

 

 

 

この辛いうつ病に悩まされている現実を、どう乗り越えていくのか?

 

うつ病ブログというものは大前提としてこのテーマを背負っているわけだけれど、それに対する切り口は人それぞれである。

 

僕も早く自分なりの確固とした切り口(スタイル)を築いて、この先少しずつでもこのブログを充実させていきたいと思う。

 

 

 

 

今後心ならずも自宅で多くの時間を過ごすことになる人たちへ

今日、政府からコロナ対策に関する緊急事態宣言が出され、日本中が大騒ぎになっている。

 

このような非常宣言が出されるのは戦後初めてだそうで、それひとつとっても、今回のこの事態が戦後史においていかに大きな国難であるかが窺える。

 

その宣言の最大のポイントは、とにかく外出を控えること、他人との接触を7〜8割減らす、などといったことである。

 

日頃から各地を飛び回っている多忙なビジネスマンなどは、まさに翼をもがれるような気持ちになるのではあるまいか。

 

この先しばらくは多くの人たちが休日を自宅で過ごすことになるのだろう。

そうなると、当然それによるストレスも相当吹き出してくることだろう。

そんな時、そのストレスの受け皿になるようなものがどれだけあるか?

これはかなり切迫した課題であると思う。

 

それこそひたすらテレビを見たり、オンラインゲームにのめり込んだり、楽器をやったり、などなど選択肢は色々あると思うのだが、例えばブログで文章を綴る、という行為はその中でも比較的有益なものではないだろうか。

 

自分の考えを文章にまとめる、という作業は意外に骨が折れるものである。

 

僕の場合に限って言えば、不安と絶望に打ちのめされ続ける精神状態の中で、日に幾度となく頭に浮かんでくる取り留めのない雑想をこうして一貫した文脈にまとめていく作業は、正直言って大変にしんどい。

 

そんな思いをしてまでもこうして日々ブログを書き続けているのは、こんな状況の中でも精一杯命を繋いでいる自分というものを、なんとか形にして残したいからだ。

 

放っておけば虚しさの中にただ流れ落ちてゆくばかりの自分の時間に、何か意味を持たせたい。そう思った時、「文章を書く」という行為は強力なツールになってくれる。

 

僕はブログを立ち上げてからまだ日は浅いのだが、書き始めてから、少しずつだがある種の手応えを感じるようになってきた。

 

少なくとも、それまで雑念に煩わされ悶々と過ごしていた無意味な時間の一部を創造的な時間に転化できたことは大きかった。時には思わぬところから評価されることもあり、それも本当に嬉しかった。

 

だから僕はこの先も極力毎日ブログを更新していくつもりだし、今ではそれが自分にとって一種の「生き甲斐」のように感じてもいる。

 

 

うつ病者である僕がこんなことを言うのもおこがましいかもしれないが、今後心ならずも自宅で多くの時間を過ごすことになる人たちにも、ぜひその中の一定の時間を「文章を書くこと」に費やして欲しいと思う。

 

それは、必ずあなたのストレスの大きな受け皿となり、のみならず創造的な喜びや、自分自身に対する新たな視点をも与えてくれるはずだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

「本気で生きなかった」後悔がうつを呼ぶ

今日からまた新しい一週間が始まった。

 

覚悟を決め、午前8時から午後5時まで仕事をし帰宅。

その後食事や入浴を済ませ、テレビをだらだら見ている間にあっという間に10時になってしまった。

 

そこでようやく自室に引きこもり、煙草と珈琲で一服しながら今日一日の出来事や考えたことを反芻する。

もっとも僕の場合は、書くに値するような出来事にはほとんど無縁なので、もっぱら考えたことのみにフォーカスするわけだけど・・・

 

 

現在僕は、九州のある調味料メーカーで勤務している。

 

職歴はすでに25年にもなるのだが、情けないことに、それだけの古株であるにも拘らず、役職などはなく未だ平社員の身分に甘んじている。

 

同期の人達や後輩達はすでに主任や係長など何らかの役職についているというのに、なぜ会社は僕だけにこうも冷たいのだろう?

 

まあ確かに僕は会社にとって理想的な社員ではなかったかもしれないが、与えられた仕事はその都度一生懸命こなしてきたつもりだ。

それなのに、なぜこんなにも不遇なのだろう?

 

そのことをずっと疑問に思ってきたのだが、近頃になりようやく納得できる理由が見えてきた。

 

それは、つまるところ僕が会社員生活を本気で生きていなかったからだ

 

自分は本来こんなちっぽけなところにいる人間ではない、という根拠のない自惚れが会社員として当然目指すべき出世コースに背を向ける、というスタンスを築いてしまい、結果的に現在のような結果になったというわけだ。

 

会社に評価されるためには、与えられた業務をただ馬鹿正直にやるだけでは駄目なのであって、そこに改善策なり、何か会社のプラスになるようなアイディアを盛り込まなくてはならない。

その点、会社員というものを鼻からナメてかかっていた僕などは、当然そんなことに思い至ることもなかった。現在の境遇は、その当然の結果というわけである。

 

敷衍して考えてみると、僕はこれまで会社員生活のみならず、妻子、親、兄弟、親戚、友人、隣人達との関係に関しても同じような態度で臨んできた。最低限の義理は果たすが決してそれ以上のこと(例えば誕生日のプレゼントなど)はしない。その結果、現在の僕の人間関係は恐ろしいほど貧弱なものになってしまった。心から信頼して相談できる相手など、はっきり言って誰もいない。

でも仕方がない。全ては本気で他人に接してこなかった自分が悪かったのだ。

 

そしてその元凶は、前述した根拠のない自惚れ・全能感によるものだった。

 

現在僕がうつで苦しんでいるのは、多分そのようにないがしろにしてきた全てのものから報いを受けているのだと思う。

 

もう50の坂を越えた僕が、この先どこまで自分の人生を軌道修正できるかは分からない。

 

だが、まだ先の長い若い皆さんには、僕のような泥沼にはまらないためにも、自分の職業、人脈をどうか大切にしてほしい、と切に思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うつ病者が見る「コロナ・ショック」

今日もテレビのニュースでは、新型コロナウィルス関連の報道に明け暮れているようだ。

 

このウィルスの脅威は日を追うごとに増していき、現時点で既に医療崩壊の危機、観光・外食産業の大幅な不振、学校閉鎖、オリンピック延期など様々な問題を引き起こしている。

 

いつ収束するのかもわからないこのパンデミックに、今世界中の人々が不安を抱えている。

 

 

僕ももちろんそのうちの一人であるわけだけれど、もともとうつ病を患って幸せとは縁遠い生活を余儀無くされている身としては、このような状況にあたふたしている人々の心情が今ひとつピンとこない。

 

このウィルスの脅威を誰よりも恐れているのは、おそらく心身共健康に恵まれたいわゆる「リア充」の人々であると思う。

彼らはもともと高い幸せレベルに慣れきっているので、それを突き崩される恐怖には並々ならぬものがあるだろうことは想像に難くない。

 

しかし、普段から先の見えない絶望に向き合い、時には自殺すら頭をよぎる僕のようなうつ病者にとっては、この現象にまつわる感覚は既に既知のものなのである。

 

それは僕だって、できることなら感染して死ぬことは避けたいと思う。その気持ちは健常者と変わりはない。ただ、うつ病者はその恐怖の度合いが彼らとは若干ずれている、ということが言いたいのだ。

もっともこれは、単に正常な感覚が麻痺しているだけのことなのかもしれないが・・・

 

 

こんなことを書いたからといって、僕は決してうつ病者が健常者より非常時のメンタルが強い、などということを言いたかったわけではない。

ただ、この状況に対するうつ病者の正直な気持ちを書いておきたかったのだ。

 

 

世間では、現在パンデミックを防ぐため、各方面で様々な取り組みがなされている。

みんな見えない不安に必死で立ち向かっている。

 

僕も、この状況をただ斜に構えて見守るのではなく、正面切って受け止められる強さと覚悟を持ちたいものだ、と切実に思う。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

「現実の自分」と「架空の自分」、どう折り合いをつけるのか?

待ちに待った週末がやってきた。

 

いつもなら渋々起床して仕事に行く準備をしている朝の時間帯に、優雅に朝寝をしていられる。ささやかな、至福の時間。

 

「今日は、何をして過ごそうか?」

そんなことをうつらうつらと考えながらも、居心地の良い布団の中からなかなか出ることができず、結局昼過ぎまで何もできなかった。

 

のそのそと起き出してはみたものの、この頃にはすでに何かをやろうという気力も消え失せている。

とりあえずテレビのニュースなどを見ながら家にあるものを適当に食べたが、それが終わった途端、行くあてのない不安に取り憑かれ途方にくれてしまった。

 

これが平日であれば仕事というレールに乗っかり時間をやり過ごすことができるのだが、それがない休日には自分で自分の行動のカリキュラムを組まなければならない。

 

・散歩に出かける

・映画のDVDを観る

・読書をする

・美味しいものを食べに行く

・ショッピングに行く

・・・・・

 

選択肢は色々あるのだが、そもそも無気力状態のうつ病者には、このような「自発的な行動」に取り掛かること自体ハードルが高い。

 

こうして悶々としているうちにも、貴重な週末の時間はどんどん過ぎ去ってゆく。

 

焦り、罪悪感、嫌悪感、などのネガティブな感情が次々に湧き起こり、そのうち居ても立ってもいられなくなり、結局は「寝逃げ」に走ってしまう。

完全な負のループである。

 

このようなことは、うつ病を患っている方の大半が経験していることと思う。

 

ここで問題になるのは、「無気力状態で何もできない現実の自分」と「生き生きと行動をしている架空の自分」との折り合いをどうつけるか、ということである。

 

そのギャップからこのような苦しいジレンマが生じるのだとすれば、解決する方法は、いかにそれを埋めるか、という点にかかっている、と言えるだろう。

 

僕も、この問題については今まで散々考えぬいてきた。

 

自分が心の中で思い描いている架空の自分というものは確かに素晴らしいもので、ある意味生きる支えになっている部分もあるとは思うのだが、それがそもそもこの無間地獄の元凶になっているのだとすれば、そこをまず何とかしなければならない。

 

そこで、現在の僕が最も妥当だと思う考え方は、この「架空の自分」を一旦棚上げし(捨てるわけではない)、「現実の自分」をベースにした考え方に切り替える、ということである。

 

具体的に言うと、たとえ「架空の自分」には遠く及ばずとも、他人と一言二言話したり、本を数ページ拾い読みしたり、といったほんの些細なアクションを、「うつ病の自分にしてはよくやった」と過大評価する癖をつける、ということである。

 

完全な無為状態をゼロとして、それに少しずつ付加価値を付けていくのである。そういうことを普段から意識して続けていると、知らず知らずのうちにエフィカシーが上がり、「架空の自分」に少しずつでも近づいていくことができる、という寸法だ。

 

ここでポイントとなるのは、「架空の自分」に一気に近づこうとして決して無理をしないこと。

そもそもうつ病者には、「0点か100点か」と言った極端な思考に走ってしまう人が多い。しかし、一足飛びに100点と取ろうとして無理をしてはいけない。

あくまでも無理をしない範囲で、その中で実行できた些細な実績を大切に育んでいこう、というハナシである。

 

たとえ1点や2点でも良い。本来は0点であるはずの自分からしてみれば、これも大した成長ではないか・・・という感覚を大事にしたいと思う。

 

何も焦ることはない。

今日一日、こうして命を繋いだだけでも大したことなのだから。

今こうして生きている現実の自分を労わる気持ちを持ってさえいれば、希望は少しずつ見えてくる。

 

少なくとも僕はそう信じている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

うつ病ブログについて、ささやかな私見

はてなブログに「うつ病に悩む方のためのグループ」というグループがあり、僕は自分のブログをそこに登録している。

 

昨夜そのグループの投稿をいくつか見ているうちに、感動した記事があったので矢も盾もたまらずコメントを書いて送ってみた。

 

そして今日再びそのサイトに飛んでみたら、なんと管理人の方がそれに対して丁寧なコメントを付けてくれていた。更にはまだ5つの記事しか書いていない僕の最初の読者に登録してくれていた!

 

正直こんな展開は全く予想していなかった。

 

そこで自分もその方の読者になり、早速アーカイブ内の記事を丹念に読んでみた。

 

この方は、うつで苦しい苦しいと言いながらも、それを逆に好機と捉え、宗教や哲学に対する造詣を深めておられるようである。

実際に書かれた記事を読んでみると、その本質的な部分が噛み砕いた表現で的確にまとめられており、勉強の深さが伺われる。

 

 

僕はブログを始めるにあたってその方面の入門書的なものをいくつか読んでみたのだが、共通して主張していることは、「読者の顕在的、潜在的なニーズに応える記事を書く」ということである。

 

例えば今の僕のように、うつで苦しい胸の内をただダラダラと書き綴っただけの内容では、同じようなうつ病の方々に共感はされるかもしれないが、そこに発展性はない。

 

さらにそこから一歩踏み込んで、この方のように、深い勉強と洞察力に裏打ちされた記事を書いてこそ、読者に何らかの知識と利益を与えることができる。それが発展性ということではないだろうか。

 

ブログについてはまだまだ超初心者の僕であるが、今後は絶えずそのようなことを念頭に置きながら、少しずつでも内容のある記事を書くための研鑽を積んでいきたいと思った次第である。

 

息子と親子らしい普通の会話がしたい

今日は一週間に一度クリニックに行く日だった。

このクリニックには、もう一ヶ月以上通っている。

 

仕事終わりの18時半に行き、1時間以上待たされた挙句、ようやく診察。

 

「調子の方はどうですか?」

「うーん。今の所大した変化はないんですが」

「体のだるさはどうですか?」

「朝が特に悪いです。仕事が終わった後はさらにどっと疲れます」

「ご家族とはどんなコミュニケーションを取っていますか?」

「息子がそろそろ就職の時期なので、父親として色々アドバイスをしたりしてやりたいという気持ちはあるのですが、こんな調子で自分に自信が持てないものだから、なかなか親目線で堂々と主張することができません。情けない話ですが・・・」

 

それは僕だって、曲がりなりにも50年間以上生きてきてそれなりの人生経験は積んできた。

 

ただ、一旦うつ病にかかると、自分の価値、これまでやってきたことに全く自信が持てなくなるので、他人に対してどうしても態度が卑屈になってしまう。それは自分の血を分けた息子に対しても同様で、大上段に構えてものを言うことができないのだ。

 

まあ、彼は彼で僕の意見などには頼らず自分なりに精一杯将来への布石を色々打っているようなので、その点は安心なのだが、親としてはやはり寂しいものがある。

 

 

今日は、診察の後ラミクタールという薬を処方された。

これは本来てんかんの発作を抑える薬なのだが、先生によると、うつ病にも劇的な効果があるということである。

 

早く症状が改善して、一日も早く息子と普通の親子らしい会話がしたいものである。